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2011年7月25日

東日本大震災 被災地で活動された千代田区民 瀬谷達郎さんインタビュー

内容

テント探しからつながった縁
震災直後より「何かしたい」という気持ちはありましたが、個人で動くことはなかなか難しく、募金による支援を続けながら情報集めをしていました。震災から一カ月経ったある日、子どもの友達のお父さんである(財)秋元国際奨学財団(以下、同財団)の椎塚さんから「宮城県の女川町にゴールデンウィーク中の4月28日から30日まで支援に行く計画があり、その時に使用するテントを探している。」との相談を受けました。テントの貸出は千代田区社会福祉協議会に確認したところ快く応じて頂き、椎塚さんに無事にお渡しできました。その際、「瀬谷さんも一緒に女川に行きませんか?」と思いがけずお誘いを受け、「是非!」と、急遽女川行きが決定したのです。

なぜ女川町?
女川町にある老舗の水産加工会社「佐藤水産株式会社」の佐藤充専務が中国人研修生を先に避難させた後、自らは津波にのみ込まれた、というニュースを記憶されている方も多いと思います。今回、私が同行した同財団は日本への留学生に奨学金を出してサポートをしている団体です。そのサポートを受けた留学生から「中国人留学生を助けてくれた女川町の皆さんに恩返しの意味で支援をしたい」との声が上がり、現地へ炊き出しに行くことが決まったそうです。
中国・韓国・インドネシア・ネパール・バングラデシュ・モンゴル・ウィグルと様々な国の留学生と日本人スタッフ合計45名でバス・トラックをチャーターし、女川町へ。4月29日に到着後、水産工場の倉庫で昼食のカレーを仕込み、1,000人ほどに振舞いました。夜は丘の上の避難所となっている集会場に移動、こちらでカラテの新極真会と合流し、縁日のような感じで炊き出しを行いました。温かい食べ物はとても好評で、みなさんに大変喜んで頂けました。

想像を上回る光景を目にして
炊き出しでは、整然と一列に並び、割り込みや多い・少ないなどのご不満も全くありませんでした。この秩序や我慢強さ、そして、皆さん本当にお互い助け合って生活をしている、その姿を見てきっと復興できる、早く立ち直って行ける…私はそう強く思いました。
とはいえ、女川町は湾になっているほとんどが津波に流され、周囲はがれきだらけ。現場を目の当たりに被災者の方と接した留学生が「こんなになったら私の母国では頑張れない、それなのに皆辛抱強く普通にしている。」と涙していたのは忘れられません。今回の震災の爪後は想像以上に激しく、現地を自分の目で見て改めて継続的な支援が必要だと感じました。

まずは身近でできる支援をする
原発事故の影響で福島県から多くの方が避難されている旧グランドプリンスホテル赤坂(※)は、私の住まいの近くです。避難所の子どもたちはここから番町幼稚園・小学校、麹町中学校に通っています。私の子どものクラスにも避難してきたお子さんがおられます。先日、番町小学校では保護者に呼びかけをし、新生児から小学生を中心とした洋服を集め、避難者の方に差し上げる会を開催しました。これからも無理のない範囲で、自分たちのできる支援を細くとも長く続けていきたいと考えています。
※平成23年6月30日にて避難所閉鎖

瀬谷 達郎(せや たつお) さん
昭和36年生まれ。生まれ・育ち、そして現在も麹町在住。中学2年生を筆頭に3人のお子さんのお父さん。本年度より千代田区立番町小学校の保護者組織「愛育会」の会長。番町小学校には赤プリに避難してきている小学生27名が元気に登校している。

【参考資料】
・平成23年2月末における女川町の人口と世帯数(女川町HPより)人口:10,016名/世帯数:3,852
・女川町の被害状況(平成23年6月27日18時宮城県HP発表) 死者数:498/行方不明者数:420/避難者数:1,148 避難所数:13 /住宅、建物被害:全壊数2,979+半壊数220+一部損壊425